(聞き手)
東日本大震災以外に、どのような災害をご経験されてきましたか。
(吉田様)
私は、生まれも育ちも塩釜市で、市役所に勤務して20年少々になります。
チリ地震については、子どもの頃、祖母から話を聞いており、塩釜市で買い物をした際などにも、どの辺りまで津波が来たのかを聞きました。
2010年のチリ地震津波の時は、非常配備の現地班職員として現場に向かいました。その時は砂押川の水面が10センチくらい高くなったくらいでしたので、大きな被害もなく、「多少津波が来た」くらいの認識でしかありませんでした。
ですから、昭和のチリ地震津波と、自分の体験したチリ津波地震では、重なり合う出来事があまりありませんでした。
宮城県沖地震の時は、私は小学校2年生でした。この時は、家の周りのブロック塀が沢山壊れて、水道の水が全然出なくなり、給水車に並んだ記憶にあります。
下水道はあまり配備されていない時代でしたので、トイレなどの衛生設備についてはさほど不便を感じませんでしたが、飲料水が飲めない期間は多少不自由した程度でした。
このような地震被害の経験を、今回の大震災にどのように活かしたのですが、津波については、以前の津波が塩釜市のどの辺りまで来たのかは分かっていました。相当な破壊力があるのだなと自分の中で理解していましたので、まずラジオで情報収集をしました。
東日本大震災発生時、私が公用車で向かった現場は、鶴ケ谷という担当地区でした。ラジオでは仙台港に6メートルから10メートルの津波が来ると言っていたので、相当な大きさとは思ったものの、鶴ケ谷地区はそこまで被害はないだろうと考えていました。
宮城県沖地震があった時は、今と比べて情報網があまり整備されていない時代でしたので、情報を自分たちでどのように入手するかということに苦労があったと思います。
災害の教訓は、祖父母の話を聞いたり、小学生の時に街の歴史を記載した副読本を読んだり、パネル展を見たりして、大変だったのだなと学びました。学習する事は、とても大事な事だと自分では思っています。
(聞き手)
発災直後にいらっしゃった場所と、その後の行動や対応についてお聞かせください。
(吉田様)
発災直後は、市役所の自分の机にいました。災害対策本部が立ち上がり、すぐに現場を確認するための出動指示がありました。
当時の役割は、鶴ケ谷地区の現地班の班長です。砂押川の土手沿いにあるシルバーヘルスプラザが詰所でしたので、まずはそこに現地班の職員2名と向かいました。先ほどもお話しましたが、行く途中は公用車のラジオや携帯電話のワンセグで情報を入手していました。
その後、多少渋滞もしていた事もあり、現場に着いたのが、15時半くらいだったと思います。
初めに、現場の状況を市役所側に伝える事が優先だったので、状況の確認をして無線で伝えました。それ以外は、はっきり言うと何も出来ませんでした。相当に頭が混乱していたからです。
16時より少し前に、大代方面から避難してきた人たちの話では、津波が来るらしいという話が広がっていました。仙塩病院に入院している患者さん達が、医師や看護師に連れられ歩いていたりしていて、笠神新橋付近は相当混雑していました。
そのため、車を誘導するのに手間取りました。笠神新橋のたもとが一番高い標高になっており、そこを起点に道路が広がっています。仙塩病院方面につながる3つの道路は、車が渋滞していました。1つ目は大代から笠神新橋に向かってくる道路、2つ目は町前方面から向かってくる道路、3つ目は国道45号方面から向かってくる道路、この3道路すべての信号が作動しておらず、渋滞もしていました。
徐々に津波と思われる水が上がって来ていましたが、車に乗っていた人たちは、どの方向に向かえばいいのかわからないし、堤防よりも道路の路面が低い為、背後から水が寄って来ている事もわからない様子でした。
ですから、その人たちが乗っている車の扉を強引に開けて、歩道橋に誘導する作業をしました。その後、津波到達時刻は分かりませんが、堤防が決壊しました。びっくり市という店の前の砂押川の堤防です。すれすれの場所にいたドライバーの人たちはとても危ない状況でした。
(聞き手)
すべての人たちを歩道橋に誘導したのでしょうか。
(吉田様)
悠長な事を言っている場合ではなかったので、とにかく歩道橋に逃げてくださいと誘導しました。振り返ると、あの辺りで随分と車が被害にあったなと思います。消防団第5分団の人たちと一緒に誘導作業をしました。津波の第一波が川を上がってきた時、私は土手にいましたので、津波が来た事を無線で市役所に伝えましたが、無線はすぐに切れてしまいました。
(聞き手)
市民の方たちはすんなり誘導に従ってくれましたか。
(吉田様)
従わない人がほとんどでしたが、有無を言わさず、「とにかく津波が来ているから逃げて下さい」といいました。
(聞き手)
その後は、全員で歩道橋にいたのでしょうか。
(吉田様)
笠神新橋を超える勢いで津波が行ったり来たりしていたので、皆さん、その様子を歩道橋の上から見ていたのではないかと思います。
私もしばらくその場にいました。その後、だんだんと水かさが上がってきて、車は流されましたし、砂押川の堤防が決壊して、川と仙台港からの水が混ざりあう状況になりました。
早く誘導が出来て良かったと思いました。
笠神新橋のたもとに河北新報の販売所がありました。
学生の頃、ある新聞販売所の留守番の手伝いをした事があったのですが、新聞販売所ではドラム缶でガソリンを購入し、配達用のバイクに給油している事を思い出しました。
そこで、そこへ行って、「市役所の職員です。悪いのですが、バイクを貸して貰えませんか」と頼みました。そのバイクを3週間程借りて、鶴ケ谷地区内の情報収集や市役所への連絡をしました。無線も切れていたし、携帯電話の充電も出来なかったので、とても役に立ちました。
(聞き手)
販売所の方から、すぐにバイクを貸していただけたのでしょうか。
(吉田様)
非常事態だったので、協力してくれました。
(聞き手)
そのバイクで一度、市役所へ戻られたのでしょうか。
(吉田様)
いえ、市役所へは戻っていません。担当エリア内の情報収集をしていました。
また詰所の隣に、鶴ケ谷デイサービスセンターがあり、日が暮れてから、ずぶ濡れになった人たちが沢山集まって来ました。
中には低体温症と思われる人もいて、心臓マッサージでの応急処置を施して、救急車で運ばれて行きました。
発災直後は、このような行動をしていました。日が暮れてからは、精油所の爆発があったり、本当にさまざまなことがあったので、よく思い出せないところもあります。
市民の人たちのエピソードとしては、鶴ケ谷地区の町内会に、「見守り隊」という活動があり、避難所である天真小学校に歩いて行く人をきちんと誘導したり、車と歩行者の整理をしたりしている姿を見たので、安心していられました。
震災直後を振り返ると、津波が橋を行ったり来たりしていて異常な様子でしたし、笠神新橋が倒壊する危険もあったので、なるべくそこを渡らないように、桜木側に消防団の人たちが待機して、鶴ケ谷側には私たちが待機して、交通規制していました。橋には下流から流れてきた船やタンクローリーが激しくぶつかり、本当に橋が壊れるのではないかと思いました。
大代や七ケ浜町方面に行くには、笠神側の堤防を通らないといけない状況でしたが、そこに続く道路や国道に抜ける道路が津波で浸水していました。
あの時、大人も子供も含めて、そこを通って目的地に行きたい人たちがたくさん笠神新橋に集まっていて危険でしたので、鶴ケ谷のデイサービスセンターへ、少し強引に誘導した記憶があります。
仙台から歩いてやって来た人、どうしても家の無事を確認したいという人、それからテニスコートでテニスをしていた高校生などがたくさんいました。電気もついていなかったし、足元の様子なども分からず危険でしたので、その人たちを見守っていました。
(聞き手)
デイサービスセンターの中へは何名くらい避難されたのでしょうか。
(吉田様)
一度にたくさんの人たちが来る訳ではなく、ぽつぽつと人が来ていたので、だいたい30人くらいだったと思います。地震や津波が来てから、夜になりかけたくらいの時間帯は、そのような状況でした。
(聞き手)
そこから先は、どのような行動をされたのでしょうか。
(吉田様)
建物の中は寒いし、市役所との連絡も全然取れなくなっていましたので、何をしたらいいのかわからない状況でした。
しかし、私たちの担当がシルバーヘルスプラザを拠点にした地域であり、何かあった時に、誰か職員がいなければ連絡がとれないという事でしたので、その日の夜はその場で待機していました。
飲み物は確保していたのですが、だんだん空腹になり、その後は、雪が降ってきて寒かったので車の中で暖を取り、デイサービスセンターの冷蔵庫にある食料を分けていただいたりして過ごしていました。
デイサービスセンターの利用者の方たちは、職員が安全な場所に連れて行ったようで、私たちが行ったときはいらっしゃらず、職員が3名ほど残っているだけでした。
地震直後は詰所周辺で、市の職員として、生命を守るため、少し強引なやり方ではありましたが、安全な方向に皆さんを誘導したりしました。
(聞き手)
一連の流れを見ると、現場で臨機応変に対応されたという事になりますね。マニュアルは使われなかったのでしょうか。
(吉田様)
マニュアルの存在は当然知っていたし、みんな持っていたと思いますが、それをしっかり理解して行動していたかどうかは疑問です。
あの状況では臨機応変な対応や、自己決定、自己判断を求められることのほうが多かったです。
(聞き手)
避難所の運営について教えていただけますか。
(吉田様)
私が担当した避難所は天真小学校でした。避難所運営のため、翌日の午後くらいに天真小学校に行ったと記憶しています。
先ほど話したとおり、現場では防災計画やマニュアルの内容は概ね理解していましたが、それを確認しながらひとつひとつの行動をする時間も余裕もありませんでした。
本来なら、避難所に来た人の名前を聞いて受付するなどの管理をすることになっていますが、当時はそんな暇がありませんでした。
というより、体育館だけではなく、教室内にまで避難してきた人で溢れていました。停電もしていましたし、管理のため使用する資材や紙などもなかったので、2~3日くらいは、校舎や体育館に避難してきた人がどの教室に何人ほど入っているのかさえ分からない状況でした。
ある程度、周りの状況が落ち着いてきてから、担当の職員を配置して、名前と住所を一つの用紙にまとめて、その場の人たちの人数などを把握しました。私はその場の流れで、責任者の役割をしていました。
(聞き手)
避難所は何名で運営されていましたか。
(吉田様)
初めは10人くらいだったと思います。避難者は最大で1500人くらいになりました。
初期段階で一番大変だった事は、安否確認の相談対応です。
「誰々さんは元気ですか」、「どこに避難しているか分かりますか」、「大丈夫ですか」などの問い合わせが24時間休み無くありました。
多賀城市外にいる親族の安否情報、確認を求める問い合わせも多く、対応する事がさらに大変でした。
親族や家族を探しに来る人は、たくさんある避難所を、靴底がすり切れるくらいの勢いで回っていました。
市役所や他の避難所と連絡を取り合い、地道にどこに誰がいるのか探して、「います」「いません」などの報告をした覚えがあります。
安否確認に対応するのはとても厳しいなと思いました。
行列とまではいきませんが、探しに来る人が途絶える事のない状況でしたので、本当に大変でした。
そのような状況の中、できる限り、避難所名簿のような物を作って活用していました。
それから、随分と時間が経った後に、市役所から、避難者名簿をきちんとフォーマットに基づいて作ってほしいと指示がありました。
天真小学校の南側の地区は津波で相当の被害がありましたが、北側の地区は津波被害がなかったので、電気が通るのも早かったと思います。
その時、私のパソコンを市役所から持って来て、フォーマットを作り、手書きのデータを電子化する作業をしました。
避難者が1500人くらいいましたので、その人たちの情報を手書きでまとめ上げるのはとても大変な作業です。ですから、本来であれば、庁内のパソコンを持ち出す事は禁止されていましたが、非常時ということと、避難者の情報取りまとめを効率的に行うためには、そのくらいの事はしてもいいと独自に判断しました。
避難所にいる方々を確認しながら名簿を作成するのはあの大変な状況の中ではきつい作業でした。日数にすると3~4日間かかりました。
(聞き手)
防災のための人材育成についてはどのようにお考えですか。
(吉田様)
全てをシステムや仕組みで対応することは不可能です。もちろん、システム化や一定の仕組みは大事ですが、通常の状態ではない混乱した時期の対応は、職員が臨機応変に対応できるスキルを養うことが大切だと思います。
3月11日に現場や避難所で行ったことの判断基準は、そのほとんどが、自分の判断に基づいたものでした。
一例を上げれば、いくらパソコンに情報を入れていても、その情報をパソコンから取り出せないと意味がありません。そのような時は、どういった動きをしなければいけないのかを職員が自分で考えて、機転を利かせた対応をする事がより重要になるということです。
また、今回の震災は、初期段階では、組織の力ではなくて、職員がそれぞれに個人の力と能力で乗り切った部分がとても大きいです。
ですから、有事の際に自分で判断し、考え、実践できる自立した職員を作る事が大切だと思います。
また、職員だけでは対応できないので、地域の人たちとの協力が大切です。
例えば、地域の人たちが1000人いるとすると、その中にはリーダー的な存在の人が絶対います。リーダーさんが、周りに情報を伝えていけば、職員が1000人の対応をする必要はありません。
そういう事を考えると、地域活動をしている人と、通常業務の中で、どれだけネットワークを作れているのか、関係性を築けているのかが重要なポイントになってくると思います。
市職員は国や県の職員と違って、一番住民に近い基礎自治体の職員になります。
ですから、市民と接する事を仕事として考える必要があります。どんどん積極的に関係性を築いて、通常の仕事をしていく事は当たり前の事だと思います。
今回の一連の取り組みの中で、私は、多くの市民の方々に助けてもらい、協力していただいたので、何とか乗り切れたと思っています。
ですので、防災計画やシステム作りに取り組む事と平行して、職員や住民との関係性を日頃からきちんと構築していくなど、市民との信頼関係を持てる職員の育成などをする事も大事だと思います。
(聞き手)
今後の復旧・復興に向けてお考えがあれば教えてください。
(吉田様)
今回の災害で、多くの皆さんが、行政活動には限界があると分かったと思います。
ですから、市民の力を取り入れた地域経営やまちづくりに力を入れる事や、参画と協働というスタンスが大切なのだと思います。
復興は、社会的インフラや、公共事業を一生懸命行う事が目に見える部分だと思いますが、そうではない部分もあります。
それを地域活動の中で今後どうしていくべきなのか、突発的な事に応じられる住民自治力を高めるにはどうしたらいいのかが課題です。
行政は、支援やサポートは出来ますが、住民自治の主体ではないので、そのような力をもう一度、みんなで振り返って考える事も必要だと思います。
社会的インフラの整備だけではなく、心の復興という事は、住民自身の取り組みも必要だと思いました。
また、つながりや絆などは、その場で急にできるものではないので、地道に粘り強く築いていく事が大事だと思います。
行政も、これを施策の柱に掲げて、いつまでも続けていく事が課題ではないかと思っています。
今の消費社会では、お金を出してサービスを買うというような世の中ではありますが、それだけではみんなが幸せになれませんし、お金と交換しただけでは得られない事がたくさんあると、震災後、実感して分かったと思います。
要するに、お金では買えなくて見えないものは「人との関係性」です。子供たちの教育の中で、そのような事を積極的に広げていけば、いじめもなくなるし、無機質な人間関係だけの世の中ではなくなると思います。ですから、人との繋がりが大事になってくると思います。
(聞き手)
今回の経験から、後世に伝えていきたい教訓はありますか。
(吉田様)
昔と違い、報道機関などが映像などのデータを膨大に持っているので、それによって伝承されていくのではないかと思うところもあります。
昔と違い、今は情報社会なので、被害の映像をインターネットで見られますし、今生きている人たちは、実際に体験しているので必ず記憶に残っています。
しかし、体験していない人たちが、次の世代にどのように伝えていくのかという部分で、大きな課題があると思います。
(聞き手)
これまでの質問以外の内容で話しておきたい事がありましたら、お願いします。
(吉田様)
個人的な考え方ですが、天災は運命や宿命みたいなものだと思いますし、知識を持っていても防ぎきれない部分もあります。
ですから、そういった事を受け入れて生活をしていくということも大事ではないかと思います。
津波や地震だけではなく、交通事故など、何が起こるかわからない状況の中で、私たちは生きているので、その時の対処方法を、自分なりの学習の中で学び、備える事が必要だと思います。
また、他の自治体の話になりますが、住民自治活動の中でのある自主防災組織では、震災時、積極的な活動をしていました。
例えば、すべての避難者に行き渡らない数しか届いていない食パンを、住民自治活動の中で皆さんが上手に配布する工夫をしました。
他の避難所ではどうしていたかというと、その場に100人いたら100個のパンがなければ渡さないし、80個なら喧嘩になるので、追加の20個が来るまで取っておくという事をしていました。
率直に言えば、行政が住民と上手に付き合うすべを持っていなかったために、このような違いが出てしまいました。
組織と組織の間で対等な関係を構築していなかったので、きちんと機能できていなかったところもあります。
七ケ浜町や塩釜市は自主防災組織といわれるところを窓口に、いろいろな仕事をしていました。そういったことを参考にしていくことも大切だと感じています。
(聞き手)
さまざまな自治体の方のお話を聞いていると、確かに自治体ごとに対応が違うという感じがします。
多賀城市では、自主防災組織の活動として、自分たちでマップを作ったり、要援護者のリストを作ったりなどをされているようですね。
(吉田様)
そのような取組はしてきたと思います。
しかし、本当に何かあった時に機能する人間関係を、地域と行政がお互いの連携の中で作っていたかというと、足りない部分もあったのではないかという気もします。
避難所の話になりますが、当初、送られてきた食べ物や、飲み物をステージの上で保管していたのですが、勝手に持って行く人などがいて、いつの間にかなくなってしまった事がありました。
次の日の朝に、平等に渡さなければいけないということで、かなり大変でしたし、気を遣いました。
避難所というのは、本来、市民の方たちが一時的に集う場所です。
仮に、自主防災組織のようなものがあれば、地域の方々をパートナーとし、そこに支援物資をお願いし、あとは住民の皆さんの中で配布してくださいとお願いすれば済みます。
それが十分に機能していなかったので、パン1個を最後まで分けるのにエネルギーを使ったことは事実です。
今回は想定をはるかに越える災害であったことに加え、市民全員が被災者であったことから、現場では丁寧な対応を心がけていました。
リーダーシップのある市民は大勢います。
しかし、そういった市民の方々との関わりが、日頃の業務の中ではあまりないことから、そういう方々が見えていないだけです。
市役所と住民が一緒に手を組んで何かをしたいと思っている人や、自発的に活動している人というのはたくさんいます。
ですから、発想を変えて、素晴らしい力を持っている市民の方と一緒に仕事をしていくといいと思います。